チェコ共和国とのかけ橋

アミ

2007年04月03日 02:35

EXPO2005 地球博
 音羽町→チェコ共和国 フレンドシップ大使

 2005年に開催された愛・地球博は、愛知県下を軸に、各方面に多大な活性源を生みだした。
 愛知万博プロジェクトの中に「一市町村一国フレンドシップ事業」があり、開催前年の春、音羽町のホスト国であるチェコ共和国(以下チェコ)フレンドシップ大使の内定を受けたときは、まさか自分にこの大役が回ってくるとは予想もしない驚きであった。
 6月、万博協会は本腰を入れマスコミ向けPR活動が本格化。ヨーロッパ圏グローバルコモン4のフレンドシップ大使代表として授与式に出席し、博覧会協会会長、豊田章一郎氏より称号証書を手渡された。

どこにあり、どんな国?

 近年のチェコを簡略して紹介すれば、東西南北をスロバキア、ドイツ、オーストリア、ポーランドに囲まれた内陸国。1993年に、チェコスロバキアはチェコとスロバキアに分離、チェコ共和国の名で独立するまでは、社会主義国として東欧圏と称されていた。最近では中欧と呼ばれるケースが目立つ。2004年5月、EUに加盟し、人口は約1030万人。首都はプラハ。
 日本で知られるこの国の著名人には、作曲家の「新世界」ドヴォルザーク。「モルダウ」スメタナ。オリンピック金メダリストでマラソンのザトペック、体操のチャスラフスカ。作家ではフランツ・カフカが有名。
 スポーツも盛んで、サッカー、アイスホッケー、テニスでは世界ランキングの上位に名を連ねる強豪がいる。また「ロボット」の語源はチェコ生まれだ。

 チェコの存在を確かめるため、単独旅行を試みた。首都プラハを蛇行して流れるのはヴルタヴァ川で、旧名のモルダウ川のほうがスメタナの連想で分かりやすい。市街地に架かるのが「カレル橋」で、1357年から1402年にかけて建設されたヨーロッパ最古の石橋と呼ばれている。プラハを訪れると誰もが行くこの石橋は、観光客と売り絵、音楽家たちが混在し、昼も夜も人波が絶えない。
 はじめこの国に入ると、自動販売機や広告物が少なく感じられた。私は列車とレンタカーを使って田舎へ行った。丘陵地帯が多く地形はどこか北海道に似ている。発展途上ではあるが、平均的人当たりはとても良く、英語も中年層まで幅広く浸透しつつある。
 公共の乗り物は日本と比較すれば、運賃はタイムスリップしたほど安く感じられ、道路整備も予想より良好で、観光シーズンをはずして田舎に行くと、旅費がかなりセーブでき、再び行きたくなるそんな国でもある。
 こうして目と耳と体感で予備知識を取得し、私なりにフレンドシップ大使の役割を果たしていくことにした。
 フレンドシップ大使の役職内容は、万博の音羽町に関連する行事、フォーラム、駐日チェコ大使カレル・ジェブラコフスキー閣下をはじめ、チェコ政府代表の音羽町表敬訪問の場に出席。レセプション
や答礼で、東京チェコ大使館への訪問などがあった。
 またチェコ政府の企画による、現代アート展やコンサートもウィンディアホール(音羽町文化ホール)で開催され、好評だった。
 最大のイベントはEXPOドームに於いてのナショナルデー「チェコ共和国の日」だった。式典では当時のイジー・パロウベク首相に花束を贈呈したが、一国の首相と握手をかわすなど、考えもつかない感動を味わった。
 役職とは別に、私的で万博会場にはほぼ毎週のように出かけた。パビリオンをすべて目を通すのに7・8回は通った。その後はゆとりをもって日替りのイベントを楽しみに会場へ行ったが、先着順の人気会場は、どんなに急いでも長蛇の列で、皆さん方どんな裏わざで到達しているのか不思議だった。
 閉幕近くになると、ゲートは早朝から大混雑。最終日は顔なじみになった私設駐車場が、車の置き場を確保してくれたが、こうした小さな親切も思い出として忘れがたい。万博会場には公私合せて28回通ったが、閉幕日は名残り惜しさに満ちた。
 フレンドシップ大使の任期は万博閉幕日となっていたが、その後も万博一周年記念「EXPO2005交流の夕べ」が開幕一年後に、同四月にはチェコ大使の帰国パーティーもあり、実質的に終えたのは平成18年4月であった。音羽町からも愛・地球博には多くの人がイベントに出演し、それぞれが思い出を心に刻んだ。
 「一市町村一国フレンドシップ事業」は万博閉幕に伴い一つの区切りをつけた。しかし終わりではなく、新たなスタートの糸口でもある。なぜならばこの事業の理念は「草の根交流」を提唱しているからだ。肩書きをはずした民間レベルの交流が根付くには、かなりの年月を要すると思われるが、灯を消さず、保ち続けることが大切であろう。
 元日に日本を発つと、8時間の時差で元日の夕刻プラハに着く。2007年は三たび、正月をチェコで迎える



写真・文 嶋 勝康

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